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―心象の極北へ―

 生きる為に描く、または書く、それらを記録する。そういった制作行為を約30年行って来ました。何かを描く事をドローイング、自身の内から出る言葉を書く事をジャーナリングと呼びますが、その二つを組み合わせる事でこの作品群が生まれました。

 それは自身に起きる様々な生きづらさ、困難、問題を解決に導くイメージ(図像)であり、言葉であったのだと思います。同時に精神や表現の世界が口を開けていました。違和感や抵抗を感じる事無く自然に呑み込まれて行きました。

〝心的形象の極北〟に向かう旅。標高318m、赤い山の風の吹く麓でゆっくり歩き出しました。

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 今、人生の折り返し地点に立ち、かつて描いてきたノート群をもう一回最初から見直し、現在思い付くイメージと言葉を加筆し再構成しています。新しい可能性を見出す為、この制作行為をライフワークとしています。

 それは「かく」行であり、内因性の画因、その本質に迫る探求行為でもあります。その作品群を〝カリ・ユガ記〟として幾度か各場で発表して来ました。

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カリ・ユガ記展示風景(東京都美術館)

〝カリ・ユガ〟とはヒンドゥーの大きな時代の流れの四つのうち最後の段階で対立や不和、などの意味があり疫病や戦争など、とても生きづらい時代とされます。我々の今生きている時代はこのカリ・ユガ期に当たるとされます。カリ・ユガは太陽暦で43万2000年間であり、その様な膨大な時間を個人的心情と視点ですが、想像力や感性を拡大させ、意識を大きく伸ばして記録してみようと思いました。私が居なくなった後、何時しか遠い未来の人々にも見て頂くものとしても記録しております。

カリ・ユガ記展示風景(龍興寺)

 このドローイングとジャーナリング合わせた作品、カリ・ユガ記で〝心的形象の極北〟を目指し、その道程で生まれるであろう着想やイメージを制作、生活で生かして行こうと思っています。

 私の制作を行う住居兼アトリエは東北の山奥の集落にあり、雪深く日照時間も少ない鉱山の土地です。太陽光を受ける時間は美しいアイスブルーですが、夜になると人気の無い暗闇へと沈んで行きます。

東北の山奥、深山の暗闇に浮かぶ一艘の小さな舟。

 深夜に時よりトラツグミ(鵺鳥)がもの哀しく鳴きます。その郷愁と大らかに舵を取る様な精神風土の懐でゆっくりとした価値観の変容を感じながら日々制作しております。静けさと暗闇が想像力を搔き立て感性を豊かにします。

 この住居兼アトリエは古民家で江戸時代からのものと聞いています。集落自体は鎌倉時代からの歴史がある様です。月夜は想像力や感性が高まるのでしょうか。いつもの制作、生活空間ではない様な不思議な雰囲気になります。

 この土地にかつて住んでいた人達も様々な幻像を思い描き見えない情報空間を精神風土として感じたのだと思います。窓の外では夜風がゆっくりと山々を呑み込んで行きます。

 鉱山の集落にある山の神神社の赤い御神灯が今夜も〝一つ眼〟の様に光っています。この山の神のご神体は新潟の弥彦神社から飛来したと言われています。風雪に埋没してしまった神仏もおられますが、この地には山神(大山祇神)、稲荷明神、弁財天、浄海坊、湯殿山信仰、阿弥陀仏信仰などが残ります。

 山の神に見守られて地霊の立ち上る靄の幽かなその奥に、数百年前の残光と匂いが漂っています。

 暗闇に浮かぶ、その一艘の小さな舟から意識の深層か彼方に釣り針を垂らし、何が引っかかるのか、その出現を待ちます。また感覚的なものを共鳴させ図像をデフォルメしたり、夢で見た風景も描いて記録します。手で描く(書く)ことで実感を得られます。手の力や体感した事を信じたい、表現したい。それが生きる為に大事な図像や言葉である事を願います。一人の画家が生きる為、生み出し続けた心象を呈示します。暗闇から立ち上がる全ての人達へ。

 カリ・ユガ記は夜に制作する事が多く、制作部屋の明かりが暗いのでランプで手元を照らします。ランプ(ランタン)による絵画の見え方も趣きがあります。暗夜でも一燈を恃む事で足元さえ解れば歩いて行けます。

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             ―カリ・ユガ記―

              制作年1992~

  ペン、鉛筆、透明水彩、墨、洋紙、雲肌麻紙、複写機

● 一層目(計266×215㎝)

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 中学生の時の生活記録ノートの集積です。〝かく〟事はこの時から始まった気がします。日々の記録とドローイングの箇所もあります。〝かく〟事の一歩を踏み出した時でありました。

・ 1層目 生活記録ノート(部分)

 まだ画家になろうと言う思いはありませんでしたが、柔軟な感性を持っていたと思います。薄暗い曇りの日の蛍光灯の人工の光に、雹を降らした巨大な積乱雲に、書物に片鱗をみせる未知の世界に、まだ何とか希望を持てそうな幽かなものを辿り、繰り返し、そして外側の世界が強い圧を持っていました。その説得力は生きる上で幸せな事だったのかも知れません。

・ 1層目 生活記録ノート(部分)

 喧騒の中、無言になると意識が内側に閉じるのを感じました。これを〝自分の世界〟と言うのかも知れません。90年代、世紀末に向かう高揚感と勢いを時代が持っている気がしました。この時代の変わり目を記録できたのは意味として大きいと思います。それは、ほぼ同時期(2000年)に起きた自己の変容としてもとても重い衝撃的なものでした。その様な事が起こるとは全く気付かず日々は過ぎて行きます。

● 2層目(計266×430㎝)

 テスト勉強の形跡があります。また家の前の畑で取れた南瓜のスケッチも後に描き足しました。風土の力は大らかに舵を切って貰えるところだと思います。何年も山奥に住んでいると知らないうちに影響を受けてしまいます。地霊の力は何かの行動に対し背中を少しだけ押してもらえる事だと思います。

・ 2層目 南瓜(部分)

 南瓜のスケッチと共にジャーナリング(文章)が添えられています。言葉からイメージが思い付く事もありますが、イメージ(図像)から言葉が思い付くこともあります。 

 自分で思い付いた事は何故か行動に移しやすいと思います。それは他人軸でなく自分軸になっているからだと思います。

・ 2層目 南瓜(部分)

 生きる為に、今日一歩進む為に言葉も現れてきました。自分に言い聞かせ理解、納得するものであるとも思います。内側が整うと次の行動が取りやすくなります。一部書いてあった事を抜粋します。

・ 2層目 ジャーナリング(部分)

・自分の本質に沿った生き方をしなさい。

・心地よい時、それは合っています。

・早く描いても、それは良い事とは限りません。

・人は頑張っても自分の延長上のものにしかなれません。その延長上を信じる。

・〝意味の世界〟と言うものがあります。その意味が行動を変えます。

・本当に今、一番やるべき事は何ですか。

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・ 2層目 ジヤーナリング(部分)

・全部自分に帰って来ます。

・どんな感情もエネルギーです。頂ければ有難い事です。

・気持ちはすぐに変わってしまいます。変わらないうちに立ちなさい。

・心身をケアしながら制作しなさい。

・どこまで自分に刺さりますか。

・一を見てそれで止めなさい。二にしたら幻想です。

・今日体がどこも痛くなく、ご飯が食べれて絵が描けてありがとうございます。

 ごく当たり前の事も、実践しようとすると難しいものです。〝かく〟基本稽古を繰り返す事で次の課題や希望が見えてきそうです。かく事で自分の内部が整うのです。

● 3層目(計266×645㎝)

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 上部に怪魚が描いてあります。意識の深層古代湖に潜む奇妙な魚は本当は影しか見えません。魚影のみ足元をゆっくり通り過ぎるだけで、音もありません。その巨大な黒い魚影は〝ドゥエンデ〟の一種なのかも知れません。

・ 3層目 怪魚(部分)

〝ドゥエンデ〟とは迫真のフラメンコを踊る方などの足裏から入って来る地霊の様なもので黒い色をしていると言いますが、それは決して悪魔ではなく芸術の創造を鼓舞するインスピレーションであり怪しい魅力を持つとされます。

 足元を横切る黒い影を見たらそれは芸術と大地の力なのかも知れません。インスピレーションは天だけでなく地からも来るのです。

・ 3層目 モケーレ・ムベンベ(部分)

 かつてアフリカは、〝ブラック・アフリカ〟と言われる古い大地で西洋から怪物が跳梁跋扈する暗黒大陸として恐れられていました。怪物の目撃報告は現代になってもあると言います。リンガラ語で、モケーレ・ムベンベ(川の流れをせき止めるもの)を意味するものを中学生の時に水彩で表現しました。下の方ではブラックメン(黒ずくめの男)たちが様子を伺っています。

 モケーレ・ムベンベは〝コンゴ・ドラゴン〟とも呼ばれ数々の探検家がその捜索に乗り出しました。モケーレ・ムベンベが出没すると言われるテレ湖に行く通過点にぬかるみの地帯があり、そのぬかるみに入る事を〝ポトポトが始まる〟と表現される様です。

・ 3層目 大蜥蜴(部分)

 蜥蜴が描いてあります。この蜥蜴も巨大で荷馬車を引きずった様な痕跡を森林地帯に残すそうです。かつてメガラニアと言う蜥蜴の怪物が存在したそうですが、現在もコモドオオトカゲ(コモド・ドラゴン)やミズオオトカゲなど大型種は存在します。古代から続くドラゴン退治のイメージの源泉はワニやオオトカゲ、大蛇から来ているのではないでしょうか。村の入口に退治したドラゴンの頭骨が飾ってあり、調査したところワニの頭骨だったと言う話も残っています。

 外は雨です。鉱山であるこの土地の地下を大地の龍が渦を巻いていてその気流で人々が生かされている想像、映像が脳裏に浮かびます。未知である事、解らない事はそのままにしておく方が心の余白になり精神の疲弊を防ぐ効果もあると思います。

・ 3層目 腕(部分)

 腕の様なイメージがあります。微熱がある時、布団が石の様にとても硬質な感触になったり、腕が膨らんでいる様な圧を感じたりする時もありました。しかし腕や布団を触ってみると普通です。幻覚の一種でしょうか。絵で記録する事により、身体の感覚も記憶されその時の感覚が蘇って来ます。良いエネルギーを記録しておくと見返した時、力を貰えます。

● 4層目(計266×860㎝)

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 イメージと言葉の集積は新しい着想を生みます。それが制作者本人だけでなく作品を鑑賞する者にも及ぶところが面白いと思います。

・ 4層目 天部の顔(部分) 

・ 4層目 仏の顔(部分)

 神仏、あるいは宇宙とも言い換えられると思いますが、その法則性をドローイングやジャーナリングで理解して行きたいと言う思いがあるようです。理解しただけではまだ意味が無く、生活や制作で実践して行かなくては本当で無い気がします。生きる為に描く(書く)切実な行為でしたが、いつかまだ見ぬイメージ、ビジョン、言葉を見てみたいと言う願望も同時に湧いて来ました。それも人間に与えられた生きる為の本能だと思います。

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・ 4層目 クレオポット(部分)

 ヒマラヤ・ダウラギリの南東陵の〝コーナボンコーラ〟や〝クレオポット〟と言われる森林などの地名のメモが見えます。上の方に見えるのはフィリピンのボホール州の無数の溶けた様な丘〝チョコレート・ヒル〟などが描かれています。フィールドの広がりを感じる事は創造性の広がりでもあるので、画家にとっては生きられる領域を拡張する事に繋がります。

・ 4層目 風の神殿(部分)

 背部に山脈が描かれ、手前にはアンデスの風の神殿が砂埃のべールに包まれています。はるか異郷を思い描く事は、閉塞感を感じていた当時の私にとって精神状態を正常に保とうとする自然な行為だったのたと思います。

 描く(書く)ことの護身が無数のイメージに繋がっています。外部からの攻撃的な刺激に対しての護身ですから、とても調和的なものだと思います。

・ 4層目 手から気(部分)

〝気〟の世界が存在すると思っています。気またはオーラの様なものは繊維状のものだと言う説もあります。制作、生活においてその気という不思議な力を顕現させる事は至難です。

 しかし、日常生活に現れる何かの節目に合わし、その何時迄に(数日後の何時まで)に何かを終わらせると心で思い〝気の圧縮を掛ける〟と行動的になれる時があります。〝思い〟繰り返し思い続け、その層を積み重ねる事で〝意〟が固まります。意が固まると行動を起こせる心の力が整います。

・ 4層目 太陽(部分)

 雲間から太陽が顔を覗かせています。日光浴をしながらドローイングする事も心身を癒し、整える行為と思います。黒い太陽(ブラック・サン)は思考実験の過程で万人が思い付く思惟必然性があるものと思います。他にも様々な象徴が人間の深層意識に眠っていると思います。

・ 4層目 夢の記録(部分)

 夢は不思議なイメージを連れて来てくれます。段々急になり登れなく階段は滑って落ちます。四角い何かに覆われた道は吸い込まれそうな奥行を感じました。これは夢の記録ですが夢の世界の住人に以前、別の夢で会った事があったので確認したら「前に会った事があるよ。」と言われた事があります。

・ 4層目 夢の記録(部分)

 大樹の幹の下には祠があり幹の中段あたり階段の穴が開いており、何処かへの入口になっています。鼻を赤く塗られた狐の石像や、鳥のような怪獣の描写も見えます。

 夢は曖昧に思えますが、詳細に物事を覚えていたり、細部まで具体的に見えたりする事もあります。一度、夢の中でこの世界は何で出来ているのだろうと思い足元の土壌に目を凝らしました。すると自動的にクローズアップされてその地面を細かく見る事ができました。それは、砂の混じった茶色の普通の土でした。夢の中の世界だからと言って突拍子の無いもので構成されている訳ではない様です。

● 5層目(計266×1075㎝)

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 この作品では仙縁石のスケッチをしました。現実に存在するフィールドとして、その風土の地平が広がっていると言う事は、自分の絵の世界(画界)の地平も同じだけ広がっていると言う事だと思います。内部に外側と同じだけの宇宙が恐らくあるのです。その境にあるのが自分と言うたった一つの〝点〟なのだと思います。

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・ 5層目 仙縁石(部分)

 この磐座(いわくら)に腹痛を起こした老人(空海の化身)がいらっしゃったそうです。不憫に思い背負った若者は特殊能力を授かったと言います。山は十人芸術家が入れば十通りの何かを得られるほど豊穣な場所だと思います。また、磐座はマンモスの様な形の印象を受けると言う考え方があり、日本人にとって蛇が古層の神の様に、マンモス(古代象)もまた古層の神の一つだったのではないかと想像します。

・ 5層目 仙縁石(部分)

 この辺りの地質では水晶が良く含まれます。また倒木や落ち葉の体積など様々な要素が重なっていると思います。木が倒れる事により森に日光が入り新しい芽が出ます。雨水を貯え虫や小動物が集まって来ます。倒木は森を看護している様なのでナース・ログと言われる事もある様です。

・ 5層目 深層の存在 (部分)

​ 意識の深海に潜って行くと、異形のものに出会う時もあります。それらの存在達は恐ろし気であると共に懐かしい感覚もあります。彼らは底の世界から来た生きる為の何かなのです。善でも悪でもない根源的な要素、養分、生命力であり彼らが顔を覗かせる事は人間の本能であると思います。描いて表現する事により彼らに見る者(鑑賞者)の意味付けと感情が流れ込み何かが画面を通じて 吹奏されるのです。

 祈りだけでなく業(ごう)でも絵画制作のエネルギーとなり得ます。描く業が強ければ、沢山量は描けると思いますが、それが自分を幸せにしているかが問題です。楽しくないと本当で無い気がします。祈りによる制作は徳を呼び込み、業(ごう)による制作はカルマ解消に通ずるものと思います。

・ 5層目 意識の固まり(部分)

 人は意識した所と繋がってしまうとその場所と感応しやすくなります。他者(人間)と意識が繋がってしまうと、こちら側の自分に反応がでます。しかし他者の方が自分と意識が繋がった場合、自分には反応が出ません。必要な時以外は反応、感応させない為、意識を切る能力が必要となります。

● 6層目(計266×1290㎝)

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   ドローイング(図像)とジャーナリング(言葉)を描く(書く)事は生きる力となり得たか。それとも、ただ重荷となって自分を苦しめているだけか。この土地で生きようとした事だけは真実の様です。

              ・ 6層目 鉄の冠 (部分)

※鉄の冠(Corona de hierros/コロナ・デ・イエロス) リソグラフ 1949年 

                      ホセ・チャベス・モラドより引用、デフォルメ。

 高校生の時、幻想画の様なものに興味があり美術部に入りました。最初に習ったのは油絵(洋画)でしたが、予備校から日本画コースに転向し大学も日本画でした。

 卒業し次第にアクリルや透明水彩、ペンなども多用するようになり、もう日本画家ではないと思い職業を〝画家〟としておりましたが、最近ある院展の同人の先生に〝日本画〟で良いとご意見を頂きました(タブロー作品に限り)。絵画の世界は境界が曖昧ですが、だからこそ自由度が可能性を生むのだと思います。

                 ・ 6層目 大首(部分)

「出典:1994年発行 ちくま文庫 妖怪花 ゲゲゲの鬼太郎…㊆ 水木しげる著 

221ページ大首より引用、デフォルメ。」

 苦痛や不安を感じていた高校時代、自転車通学の登校途中で小さい祠や神社仏閣、森の中の道、雷雨が来る前の雲の早さなどに心の平安を感じていました。苦しさをその幻想に癒されていたのだと思います。

 外灯が乏しく夜が本当に暗闇であった時代、子供たちはその闇に何者かの存在を感じ取り創造力を豊かにしました。お化けを本気で怖がる時間がありました。郷愁と懐かしさに溢れた何と幸せな瞬間だったのだろうと思います。

・ 6層目 水蛇(部分)

 その昔、丸山沼と言う所で漁をしていた力持ちの御爺さんがおりました。その日は魚が取れなく舟の上で一服をしていると、向こうの茂みの中から大蛇が現れこちらに泳いで接近してきます。御爺さんは草苅鎌で大蛇と格闘になりました。そして、やっとの事で大蛇を倒し沼に沈めました。

「丸山沼には大蛇がいた…。」と大きな目をギョロギョロさせて御爺さんは良く語ったそうです。

 丸山沼は原市沼川とも呼ばれ、鯉、鮒、鯰、雷魚などが沢山釣れました。もうあの頃へは戻れないかも知れませんが、濁った水底に閃く魚や蛇のうねる鱗の鈍い輝きには今でも高揚を感じます。

・ 6層目 土精(部分)

 地域で制作しているとその土地で暮らした事のある方しか知らない話しも聞けます。私の制作活動する地は鉱山の集落で、かつて異国の方々も働いており牛一頭を丸々買って来て綺麗に骨だけ残して捌いてみんな食べてしまうそうです。江戸時代からの鉱山なのでそう言った忘れられ埋もれていった記憶が沢山あると思います。古い土地の霊質は記憶の堆積が創造性としての引き金になる事です。

 地霊や土精たちがゆらゆらと地から立ち現われ何か言いたげにこちらを見ています。口が無いので無言ですが、二つの穴の様な眼窩の影の中から何かを見ているのです。

・ 6層目 子供 (部分)

 子供の頃、風邪などで発熱すると良く悪夢に魘され寝ぼけたのを覚えています。その感覚は、最初は、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10と規則正しく数が並んでいるのですが、数が大きくなるにつれ、17、105、49,1039,56、7453…、などと不規則になり我慢できなくなって寝ぼける事が多かったです。

 数を1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。と早口で連呼する行為にも怖さを感じていました。数霊(かずだま)の魔の側面でしょうか。

・ 6層目 闇の者 (部分)

 闇の者や魔物に焦点を当てないようにしていても、イメージが出て来てしまう時があります。光が強ければ闇も濃くなるように何故かこの世には闇はあるのだと思います。光(神仏)に対し〝夜叉〟や〝第六天魔王〟の様に何か役割をもった反対のものが存在するのだと思います。善悪を超えた視点で作品を描けたらと思い、中庸が大事と感じます。デーモニッシュなものが描けてしまってもそのイメージに固執してはいけません。

・ 6層目 中心軸(部分)

 人体の中心軸は歩行するたびに左右にずれますが基本的には両足の中心に落ちると思います。その中心軸がずれた時、人の体は簡単にバランスを崩しやすい状態になります。心がしっかりしている方は重心が下の方(丹田)にあり正中線もぶれていないと言います。姿勢を造る事で、心も連動しそれに倣うのではないかと思います。霊体の延長上に肉体もあると言う考え方があり、体の声を聴く事は頭だけでする判断よりも正しい時があると思います。

● 7層目(計266×1505㎝)

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 ドローイングとジャーナリングの割合はその時によって異なるのですが、こう言った作品を〝アートジャーナル〟とも呼ぶそうです。

 絵で描いても、それは絵空事です。行動の中に本質があります。行動を起こす為のイメージや言葉となって意味を持ち〝力〟は行動の中に流れ込みます。地球は行動の星の様です。行動しないと物事が動かない法則の世界の様です。

・ 7層目 夢の記録(部分)

 子供の頃に見た夢の記録の中で面白い経験があります。夢の中で民宿のような所に旅行に行って、前も会った様な気がしたので、そこに住む兄弟姉妹の様な子供たちに「前にここに来た事あるよね。」と言ったら、「そうだよ。」と言っていました。

・ 7層目 夢の記録(部分)

 夢の中で様々な形のUFOがそれがどういうものなのか説明しながら天空を通り過ぎていきます。また阿弥陀くじのような形の雷とか、授業を受けている教室を棒高跳びみたいにして教室の上の方にある小さい窓から抜け出して行く夢などを記録しました。何かのメタファーだと思います。どんな夢でもそれを思い返す事で癒しの効果がある様です。

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・ 7層目 ビジュヌ神(部分)

 ビジュヌ神はヒンドゥー教の三大神の一柱です。眠れる預言者と言われたエドガー・ケーシ―が世界で最も真理を言い当てている書物は何かと言う質問に対し、ヒンドゥーのバガバット・ギータ―だと述べています。

 様々宗派の源流になったヒンドゥー教は養分を豊富に含んだねっとりとした大河の様です。乳海攪拌の時、様々な神々や悪魔が生まれ、多様なイメージの源泉として現代にあります。

● 8層目(計266×1720㎝)

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 夜、玄関の外に座って夜の山を見ながらドローイングしていると、暗い山々から何者か猪か羚羊かの気配を感じる事があります。それはもしかすると複数で、暗闇の中で蠢いています。闇と山々の圧で畏怖の念が湧く時もあります。

 黒んぼ(人影)が列を造って深山に消えて行きます。彼ら一人ひとりに物語があり、圧倒的な絶望の壁を前にしてどう希望と勇気と忍耐を持つか。と聞こえて来ます。

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・8層目 山(部分)

 異界とは特別な場所では無く我々の住む生活空間のすぐ隣にぽっかりと口を開けているものなのかも知れません。

 この地域の山々にも伝説があり、近隣の金山峠には山姥(やまんば)が住んでおり、良く集落に肉を売りに来たそうです。その肉を調べてみると人間の爪の様なものが入っていたと言う恐ろしい話も残っています。峠には今も茶屋の跡が残ります。

 山賊の住処と言われる大岩ある地帯も山中にあり山賊の足跡が今でも岩に刻み付けられています。40㎝はあろうかと思われる巨大さでした。その大岩には大蛇が住むと言われ、深い森が伝説を幾層にも覆い尽くしています。

・ 8層目 山(部分)

 この地域には、浄海坊(じょうかいぼん)と言う不思議な古いお墓のようなものがあります。海坊権現とも言われその昔、平家の落ち武者が逃れて来てその方のお墓だとも言われています。十六菊花紋が刻まれている事から身分の高い人だったのかも知れません。浄海坊は古墳の様なものの上に建てられており、古層にはまだまだ知られていない神々が眠っておられる様です。

・ 8層目 雪女(部分)

  雪はしんしんと降ると言いますが、雪は音を吸収して本当に静かな空間を造り出します。夜は月の光が雪の白い空間をさらに冷たく不思議にします。

 私の制作活動を行う地にも雪女の話が伝わっており、雪の夜に泊めて貰いに来た雪女がおり、その家の老人が手に触れたとたん、天井の煙り出しから消えて行ったと言います。

・ 8層目 子供、眼(部分)

 他者の眼、自分の眼があるからそれを意識して心身に反応が起こるのでしょうか。意識の念縛により動けなくなったり、注察があるからこそ力が出せたりします。目に見えないもの、精神的なものが行動力を大きく左右します。行動力を削っているものを内に外に少しずつ無くしていく事が大事と思います。

・ 8層目 人物(部分)

 本当にやりたい事は何なのでしょうか。全ては何か大きなものの流れで導かれている気がします。好きな事でも楽しく長く続けるのは難しい事です。しかし楽しい事を宇宙、神、仏、表現は沢山あると思いますがそう言った見えない大きなものが望んでるのだと思います。宇宙は楽しい事、面白い事、高揚が好きで同調されるのを何も言わず待っている気がします。何も言わないのは人間の自主性を尊重しているのからかも知れません。

● 9層目(計266×1935㎝)

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 都ではタブレットで絵を描いていました。手描きの人間の手の力とは何なのか、生々しいいと言う事、感応を引き起こしやすい事、経験の記憶に感情がのる事、大変でやりがいがあるから強い意思が形成される事だと思います。あらゆる願望が簡単に満たされた時、人は無力になります。

・9層目 人物(部分)

 目の前にある事を一生懸命にこなしていくだけのヨーガがあります。〝カルマ・ヨーガ〟と呼ばれていますが、人はそれぞれ業(カルマ)が違うので行う事も変わってきます。業(カルマ)の解消を一つでも多くするのが人生の仕事と思ったら合理的な生活のあり方の様な気がします。

・ 9層目 火花(部分)

 頭の中に赤い花が幾つか小さく咲くだけで何も思い浮かばない。赤い花びらが虚無に吹かれあちらからこちらへ。知らないうちに意識が無くなりペンを持ったまま眠りに落ちています。

・ 9層目 夜(部分)

 明けない夜。寒く暗い、あらゆるものが陰に滅する様な時間。冬眠の様な時間が人間にもあると思います。その様な時、お風呂の電気を消し洞窟の温泉の様にして入るのも良いかも知れません。陰に陰をぶつける事により陽に変化する事もあると思います。

・9層目 独笑(部分)

 狂気とは誰もが持っている感情と思いますが、狂気を伴わないと表現できない世界があります。その気の媒体となっても耐えられる心身を造る事が大事だと思います。表現の為、やむを得ず魔界に入る時は命綱をしっかりと。

・ 9層目 山の生命の養分(部分)

 地面に何度も何度も叩きつけられ、それでも自然に立ち上がって来るもの、それが人間に与えられた根源的で純粋な生きる力です。地底に様々な力が胎蔵されていて土がその力で盛り上がったのが〝山〟で見えない何かを表出しているのです。生きる力は見えないのです。何とか目に見える様に表現しないと伝わらないのです。

・ 9層目 発光体(部分)

 小学3年生の時、近所でUFO事件がありました。夜、隣のパン屋さんの息子さんが、家の窓から発光体を目撃し母親に伝えました。その発光体は近隣のコミュニティセンターの上空を行ったり来たりしていたそうです。大変珍しい事なので私の家に電話しようかと思ったそうですが、深夜の為、そんな変な事で電話するのも悪いと思い連絡せず、後日詳細を話して頂きました。

 子供の頃、不思議は身近に溢れるほどあると思っていました。あの時間をもっと大事にしていたらと思います。

● 10層目(計266×2150㎝)

 大地母神ガイア(地球)はあらゆるものを許してくれる大らかさがある様で、だからこそ強くて恐い。人間が自然を破壊しているのではなく、地球が人間を使って自然を破壊し自身を変容させようとしているのかも知れません。

・ 10層目 出口なし(部分)

 人間は誰かに憧れてもその人にはなれない。努力して近づきはすれど及ばない。自分は自分の延長上の自分にしかなれない。その自分が嫌だったら、さらに遠く延長上の自分になるしかない。そんな日常生活の旅が出来ます。重苦しい鉛の空から遠雷が響きます、それでも行く定めにあるのです。多分。

・ 10層目 森(部分)

 その昔、ある所に昼でも暗い森がありました。この一帯には〝赤〟と〝青〟と言われる大男が住み着き昼でも一人では歩けない不気味な森でした。

 夜になると狐や狸、鼬などが跳梁跋扈し狐(オトカ)が人を化かすそうです。森の奥にある古寺の跡には崩れそうな鐘楼が残り退廃的な寂しさを漂わしています。〝葷酒山門に入るを許さず〟とその標柱にあったのを見た人もいたそうです。遠い異郷のお話です。

・ 10層目 邪念(部分)

 貴方が、私が挑もうとしているものは、邪念を持ってしてどうにかなるものでは無いのかも知れません。悪いものは吐きだし透明に完成された心身でないと見えない世界もあるのです。行動を全部宇宙にお任せ出来れば一番良いのかも知れません。簡単な様でとても難しい事です。

・ 10層目 意識の引力(部分)

 予備校生の頃だったと思いますが、当時の私の家に併設されたお店にはマネキン人形が数体あり夜になるととても不気味でした。閉店後の夜にその事を弟と冗談で話していると、かなり近いどこか(店の中か、戸外か解りません)から絶叫する様な女性の叫び声が「キャー。」と聞こえました。

 その後、何かが起こった訳ではありませんが、あくる日の朝、母が確かに聞こえたよ…。と言っておりました。怖い意識は怖いものを引き寄せるのでしょうか。妖怪に「一声叫び」と言うものが伝わっているそうですが、今も健在の様です。

・ 10層目 暗黒の翼の神(部分)

 この影は、翼を持った神か悪魔かなどとは幻想の話です。探検家の川口浩さんは1985年ギアナ高地に〝暗黒の翼の神〟の捜索に乗り出しました。洞窟を飛び回る夥しい数の怪鳥は確かに存在しました。翼長は2mあったとされます。夢とは与えられた時、嬉しいものです。

・ 10層目 虚無(部分)

 ニーチェのニヒリズム(虚無主義)は肯定的なものでしたが「神は死んだ」とまで言っています。

 ミヒャル・エンデのファンタジー〝ネバーエンディングストーリー〟でも虚無が終盤押し寄せてきます。人は何時しか虚無と対峙しなくてはならない日が来ると思います。だからこそ人に夢を与える職種の方が存在しているのだと思います。人間も地球も宇宙も生きる様に、生きる様にと構成されている様に思えます。

・10層目 須佐之男命(部分)

 須佐之男の圧倒的パワー。その表現を求め須佐之男をはじめ、変容した神である牛頭天王、祇園大明神などをタブローで描きました。

 巨大な作品を描き続ける事は体力、精神力を求められます。〝力〟がどうしても出ない時、体を動かしたり、良く寝たり、花を買って来てみたり、掃除してみたりなど工夫してみますがそれでも良くありません。瞬間的なものでなく今日、力がでなかったら数週間前のあり方が間違っていたのだと思います。絵を描くエネルギーを造れる心身になれる準備がまず必要です。今この瞬間からそれは始まっているのです。

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