TOMIYUKI KANEKO
金子富之
―チベット研修旅行―
2002年大学のスケッチ旅行でチベット高原をバスで縦走する機会に恵まれました。制作する力を失ってゼロに戻ってしまったかの様なその状態をこの旅で打開する気持ちで出発しました。
飛行機の窓から雲海を見下ろし、新しい世界が始まる様な新鮮な感じを、この感覚を良く記憶しておこうと本能的に思いました。以前からチベット密教美術に関心があり、自分の趣向と状況がぴったりと噛み合っていて高揚感がありました。
中国の成都からチベット自治区の都・ラサに降り、標高が3600mある事から高度順応の為、休養を取りました。チベット高原の平均標高は4000mあり標高7000m以上の峰が50以上もあるので世界の屋根と称されています。ここではヒマラヤや崑崙山など仏の蓮華座とみなされる峰々が全て聖域です。
成都の船が煙を上げて進んで行きます。見た事はありませんが懐かしい感じがします。既視感(きしかん)は昔どこかであったかの様な様々な記憶を誘発する面白い現象です。引き出されたものは本当の記憶なのか想像の世界のものなのか曖昧な所があります。明確な線引きをしないと間違った想像の記憶を上書きしてしまうかも知れません。しかし、もしかしたら人は良い記憶を上書きして造っていった方が良いのかとも思います。
ラサの山沿いの地域。この時点で高山病により頭が痛くなり始めました。ラサでは酸素を購入する事が出来ます。酸素の有難みは普段あまり意識出来ないですが、山形には祭神が空気である空気神社あります。この数年後、お参りする事が出来ました。
チベットは厳しい環境の為、生活してゆくにはそれに負けない精神力や体力が必要となるのだと思います。その力を得るため信仰する神仏も荒々しいものも多く強烈な色彩を放っています。
チベット密教の忿怒尊ヴァジュラヴァイラヴァ。ヒンドゥー教のシヴァ神が、その狂暴な側面の具現とし密教に取り入れられ怖畏金剛(ヴァジュラヴァイラヴァ)となりました。地獄の閻魔大王すら調伏させると言う激しさを持ち、日本の大威徳明王(ヤマーンタカ)と同体とされます。
寺院の壁に描かれた曼荼羅や仏画は恐らく電気の光による見え方は本当でないと思います。本来は蝋燭などの灯明により、ゆらゆらと暗闇に揺れ動く光源に照らし出される世界であり、揺れ動く仏の躍動感と神秘に修行僧は何かを見るのだと思います。
ポタラ宮は単体では世界最大級の建造物でチベット仏教の中心とされます。観音菩薩の転生と言われるダライ・ラマの宮殿であり、この巨大な宮殿のどこかに理想郷・シャンバラの入り口があると言う伝説があります。宮殿は紅宮と白宮の二つに大きく分かれ国の行政機関を統べるのが白宮でチベット密教の宇宙観の立体曼荼羅が鎮座する宗教的な意味合いを担うのが紅宮です。
一般の人でも入れる内部の空間はランプのオレンジ色の炎とその油の匂いが印象的で幻想的な回廊が続きます。高地である為、階段を上るたびに頭が痛みます。酸欠の為に体もだるく、この地に適応している人達の身体能力に驚かされます。
五体投地は仏教において最も丁寧な礼拝の作法とされ仏への帰依を表現します。その祈りが向けられる仏の世界にはあらゆる苦しみや悩みを救済する智慧が待っています。
寒さに耐えられる体形のヤク。人間も寒い所で沢山スケッチをしていると、背中が猫背になってきて自然と耐寒の身体つきになる様です。
風にたなびくタルチョ。お経が書いてある布で一回たなびくと一回お経を唱えた事になります。雲の影が滑る様に抜けて行きます。雲が早く流れ、空が早いというのは不気味な感じがします。ある特殊な条件下に置かれた人間は雲がピューッと早く流れる幻視をする場合があるそうですが、何かが急いている様な不安を煽る怖さがあります。
高地は雪に覆われた地域もあり荒涼とした風景を容赦なく凍てつかせます。愁殺という表現を地でいきます。大気が夕闇に閉ざされた時、静寂に包まれながらもその中で巨大な何かが蠢き脈動していている様にも見えます。静かなのに恐ろしい牙を持っています。
岩肌が剥き出しの骸骨の様な山々が連なります。酸素が薄く気力を徐々に奪われ、生命の繁栄をなかなか許さない神々の聖域を白く冷たい太陽が差し付けます。
霧の中を白い河が筋を造りこの世ならぬ雰囲気です。三途の川とはこんな感じなのかも知れません。この世に何も残さず綺麗に終わるのか、それとも何か大きなものを残したいのか、後者は地水の美しさに惹かれてしまい、心の苦しみに喜びを見出してしまい苦海の地球の魅力に囚われてしまった差なのかも知れません。
この様な広大な風景をどう描いたら良いのでしょうか。迫力は作者がまず実感していないと表現しづらいと思います。チベットは〝神の住む国〟とも呼ばれていますが、その神の要素、正体の一つが〝巨大〟なのだと思います。高度計は最高で5300mを指したそうです。
ゴビ砂漠。膨大な砂の体積が迫ってきます。少し歩いてみましたが凄く歩きづらく体力を消耗します。この砂を岩絵具代わりにして砂漠を描いたら面白いかもと思いましたが行動には移しませんでした。
砂丘の固まりが宙に浮かんでいる様な蜃気楼が見えます。ポタラ宮だけでなく崑崙山の近くにもシャンバラの入り口があると言う伝説があります。その地底世界の王が霊的な力で地上を治めていると言います。シャンバラやアガルタの様な地底世界の理想郷とは現世が苦しいが故に皆が求めてやまない楽園の幻なのかも知れません。
しかし神秘主義者達には存在すると信じられて来ました。もし多次元宇宙の様に異なった宇宙が重なっている場がぽっかりと口を開けていたら、その空間に入った時、周りの風景は辻褄が合いながら別宇宙に自然でありながら溶け込むように無理なくその宇宙、空間が変わるのだと思います。その一連の流れが自然であるがゆえに別宇宙の空間に変わったとは気付かないものなのかも知れません。
直射日光が強く日に当たっている顔などの皮が剥けてきます。日光が下からも当たるのか解りませんが鼻の下の皮も剥がれました。空気も乾燥していて雪を握ってみても手が濡れる感じがしません。
途中でバスが故障してしまい、通りすがりのトラックにけん引してもらい、頭痛が酷い時には酸素吸入を行いながらゆっくりと高原を降りました。高山病により参加者の多数の方が現地の病院へ行きました。高原はどこに行っても高地なので逃げ場がなくただ耐えるしかありません。
旅も終わりに近づきました。チベットの風景に目がいき、神仏や精霊を描こうという気にはなりませんでしたが見えない何かにやはり関心が向いている気がしていました。
日々、絵を描く気力を出すのは大変なことです。顕在意識の下に膨大な潜在意識が眠っている様ですが表面の顕在意識だけの気力が出てもすぐその力は消えてしまいます。潜在意識からの気力の充実でないとパワーは持続しないようです。それには自己の深層説得や前向きな深い体験が必要で、自分にリアルである事が大事なのだと思います。感動し体感を伴うからこそ意識の深い所まで届くのです。毎日コツコツ制作出来る方法はその潜在意識からやる気にさせてあけることだと思います。
帰りは敦煌から西安、重慶、成田の飛行機の乗り継ぎでした。どの辺りを飛んでいる時でしょうか、飛行機の中で夜明けを迎え薄暗い雲を突き抜けるかの様に日光が真横から差してきました。その光を浴びた瞬間、自分は大丈夫かも知れない、と不思議な感覚に捉われました。それまでの体験と場の力がそうさせた一時的なものかも知れませんが奇妙な安心感があり記憶に残りました。その後その記憶を思い出すたびに感覚がフラッシュバックしポジティブなトラウマの様になっていました。現在はその感覚は薄れましたが、何か困難に立ち向かうにはロジックよりも感性的な記憶の引き出しの方が大事なのかも知れません。世界中に太陽神は伝説にあります。その太陽の力は人類の歴史で無数の人々に希望を与えたのだと思います。