―インド研修旅行―

 2000年夏、大学のスケッチ旅行でインドに行く機会に恵まれました。日本画制作に悩み始め、どうやって自己に可能性を見出すか迷いと不安がありました。しかし、インドと言う特殊な環境で希望を見出せるかも知れないと仄かな期待もありました。

 インドの仏像や古い建物に興味が向きましたが自分が本当に描きたいものは何か解らず、方向性が定まらず異国情緒と非日常の高揚感が本質的な問題を盲目的にしました。

 

  新しく得た知識や経験、それらは次に待っている進歩の為、分かち合わなければ苦しみや分離などのネガティブに繋がると言う考え方があります。思った事を伝えるのはそれだけで統合、ポジティブな行為なのだと思います。

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 色々な事を考える時間、この時間をインドでは自己を現実のリアルな苦しみに結び付ける為、絶対的なものとされる場合があります。アタルヴァ・ヴェーダでは第一原理が時間であり、時間により宇宙が始まり様々な運動が起こったとされます。

 滞在したウシャキランのホテルでルールも知らないのですがビリヤードをしました。球が弾かれてから様々な玉にぶつかり合い最後に穴に落ちるまでの様に宇宙の始まりから終わりまで全部詳細に決まっているという説があります。ならば人間が何を思考するかも必然なのでしょうか。

  泊っているホテルでは出没すると言う幽霊の存在が雰囲気的に想像力を豊かにします。ただでさえ思考が巡り寝付きが悪いのにお化けは私には少し強いようです。

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​ 人間が何か行動を起こしたら、因果応報により結果まで決まってしまうと言う考え方があります。しかし、人間が次に何か起こそうとする行動は神様でも読めないという考え方もある様です。時間の中に生かされていて何をするのかしないのか不確定か決定しているのか解りませんが、時間は待ってはくれない様に見えます。

 遠回りに思えますが足元にある課題を着実にこなす方が遠くの目標を達成しようと思うより早いのかも知れません。いきなり大輪の花を咲かせるよりコツコツとゆっくり高めていく方が何十年も気力を維持できるのではないかとも思います。

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​ インドの太陽神スーリヤの回る車輪は時間の象徴になります。ジャイナ教では六つのスポークが六つの時代を現わしその車輪は永遠に回転し始まりも終わりもないとされます。瞑想の時、時間の流れが短縮した様に感じる事があります。また楽しい時の時間は早く過ぎ去る様にも感じます。主観的な時間の流れは感じる側の思いで能動的に変えられるものなのかも知れません。

 しかし外部からの要因で感じる時間の感覚が大きく変わる出来事がこの後起こりました。それは体感時間がとても遅く感じてしまう状態で、苦痛を伴うものでした。

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 何か今のままの努力では限界が近づいている事に自分で気が付いていましました。闇に目を向けては取り込まれるばかりで人間は一回壊れないと変わる事ができないのでしようか。徐々に自分を取り巻く世界が萎み始め、体調崩し心身のバランスが崩れました。

 この出来事により、自己の本質と精神の世界への関心が高まりました。心の器は一度ひびが入ると元に戻らないなどとも言いますが、神仏によりその者の成長の為、器を一回壊して頂くと言う考え方もある様です。

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  その一連の出来事は、生命の危機を感じる人生観が変わるほどの重い衝撃で、絵を描く力、集中力も失われ、その後数年間、全てが回復するための生活だった感じがします。

 回復の為、毎日スケッチを一枚づつ描き、そんな事をしてもどうにもならないのは解っていても、あるお寺の裏山を描き続けました。人生の明確な気づきの様なものはありませんでしたが、並行してドローイングをする事により、それが命綱になっていた様に思います。精神力を取り戻すため精神世界への探求欲が生まれ、理想ではなく自分の本質的なものや特性に合っているものを大事にする考えに変わっていきました。

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​ その様な事が起こるとは知るよしもなく旅は続いていきました。この山の近くでは鳥葬が行われるらしいですが、人間は死を直視する事がどうも出来ないのではないかと思います。死の瞬間、その意識の無くなる瞬間を想像してみても実際、本当に死がリアリティをもって身近になると、心細く不安で怖いものだと思います。怖くないと思えるのはそれだけ体力、気力のある証拠ではないかとも感じました。気力には限界があります。根を詰めるような描き方ではいずれ疲れてしまいます。リラックスしながらも捗る、そんな呼吸が多分あるのです。そして一朝一夕では身に付くものではないようです。

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 デカン高原では野生と思われる孔雀がいましたが、孔雀は害虫や毒蛇を食べてもその毒には平気である事から神格化された孔雀明王は災害や苦を取り除く功徳があるとされます。

 

 ドローイングをする事により心の毒を吐き出し続け解毒し続けた結果、最初は力が入っていたのですがやがて表現力を失った様な弱々しいドローイングに変化していきました。この体験で心毒の様なものも一つの表現力である事に気づき、体験している本人は苦しいですが、ある種のパワーなのだと思いました。

 やがて数年の年月の経過にと共に描く力が少しずつ戻って来たのですが、人間には自己回復能力が自動的に働くのだと思います。苦しい時に描いたドローイングは鑑賞者にとって同じ種類の苦るしみのカタルシスの効果があるのではとも感じました。共感、共鳴することにより心が同調し、ドローイングの内容に感応し感情が誘導されるのだと思います。

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 ブサウラ村の姉妹のスケッチ。お姉ちゃんの方はスケッチにあたり、わざわざ腕輪やネックレスをして来てくれました。男の子たちはブルースリーを日本人だと思ってるらしくカンフーのポーズを良く取ってくれます。

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ブサウラ村の家屋。この村の住人は1家族、135名が住むという農家の一族です。

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​ ガンジス川の化身はガンガーと言う女神です。母なるガンガーと呼ばれガンジスはヒンドゥー教においては聖域でこの川で沐浴する事により罪が流され、死後の遺灰を流せば輪廻を解脱出来ると言われています。ガンジス川の対岸は不浄の地で人々が住みつかないといいます。河川のメタファーは日本では龍蛇が多いですがインドでは女神もある事から様々な生命を生み出すその広大な肥沃さを連想させられます。

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 ヤムナ川の化身はヤミ―と言う女神です。死者の国の王ヤマの妹で太陽神スーリヤの子とされます。奥に見えているのはタージマハルでそのすぐ横を流れています。

 

 何か対象物に想像力を巡らせた時、適合する記憶、イメージが想起され徐々に像が組み立てられるのだと思います。この辺りに、後に課題となる神仏や精霊、妖怪などの平面造形における実体の無いものの具現化に繋がるものがあったのですが、この時にはまだ気づく事が無く、風景を描き続けました。この年、2000年に起きた精神的なショックが私の制作活動の本当の始まりだったのかも知れません。